算命学の命式というのは、自分の環境の縮図です。
随分前に「異気集合論」について書きましたが、そこで説明したとおり、人はこの世に生を受けたその瞬間に、この世界でどんなふうに人と関わっていくのかが決まります。
「どんなふうに人と関わるか」=環境で、つまり生まれたその生年月日にはその環境の姿が記されているのだということになります。
例えば、
父親との関係や母親との関係、
結婚相手に出会う時期、
縁のある子供の数、
…などを始め、様々なことがそこには記されています。
「こうでしょう。」
※「こうでしょう?」ではなく。
と指摘すると、何も知らない人はまるで魔法か何かを見たように驚かれるのですが、算命学の教えを紐解けば、それが魔法でもなんでもなく、一貫した哲理に基づいた理論の延長戦上にあるものであることが分かります。
人間というのは、個人として生きていると、自分が自分のことをコントロールできるものだと思うもので、とりわけ現代のように自意識を追求するような流れの中に生きていると、「他人がその人を取り巻く人間関係や環境などを言い当てていく」ということを理解することができません。
なぜなら、
自分の人生は自分のもの。
自分の人生は自分でコントロールできるもの。
そういう世界観で教育され、それを当然のこととして生きてきた理屈と、
「他人が自分の環境を言い当てる」ということは理論において矛盾するから。
自分でコントロールしているものは、自分にしかわからないはず。
他人がなんでそれを知ってるの??
…という思考回路です。
これを逆に考えれば、
他人がなんらかのロジックで自分のことを言い当てることができるということは、
自分は自分とは別の存在(原理、理論、あるいは神さま)によって動かされている、生かされている、ということに思い至っても良さそうなものですが、
戦後以来75年もの長きにわたる西洋的教育、唯物論的教育の中で育ってきた人たち、そんな親に育てられてきた人たちは、そう簡単に「自分は自分でコントロールするもの」という世界観を手放すことはできないのも無理はないかな、という気がします。
異気集合論は、人は生まれながらに環境が決められていることを示しています。(多少乱暴な言い方ではありますが)
よって、例えばやたらと攻撃ばかりされる人は攻撃される型で生まれているし、やたらとまわりに親切にされる人は親切にされる型に生まれています。
家に馴染めないとか親が理解できないとかいうことも、既に型としてあるので、それを悩んだり親を恨んだりしてもあまり意味はありません。
くどいようですが、
人はそれぞれ人生の型があり、その型を超えることも脱することもできません。
…現代に生きる我々に、このような「人生には限界がある」という考え方は受け入れがたいように感じられますが、
『人は地に生まれ、天界をいただく。
ゆえに今生において、天地人三界を脱すること難し。
ゆえに人は天地人三歳の理の中に生く。』
東洋4000年の歴史が遺したこの言葉をよくよく玩味すれば、その説くところが理解できるのではないかと思いますがいかがでしょうか。
私のブログは多少難解な面もあるため、お越しになる方は大抵算命学を多少なりとは知っている方ばかりなのでこれまであまり気づかなかったのですが、
算命学をほとんど知らない方は命式の内容をお伝えして、「これはすごい!」と驚いてくださるものの、それでおしまい、な人がけっこうおられます。
まるで余興のように受け取られるというか。
それはそれで、とやかくいうことでもないのですが、やはりなんとなく「勿体無いなぁ」と思います。
驚くほど当たっているのはなぜか?
当たっているならそれは何に基づいているのか?
…というところにまで思いが届けば、
それに応じた生き方なり処世術なりを探すことを考えても良さそうなもので、
そうすれば、
目標、活躍の場に近づきやすくなるばかりでなく、
効率的であるばかりでなく、
満足感のある人生に向かうことができるのに。
…など思います。
まぁ、押し付けるようなものでもないのでいいませんが。
ちなみに、どういう環境なら生かすことができ、どういう環境であれば生かすことが難しいか、
どういう順序で世の中に向かっていくのが良いか、というようなことは、大運にくっきり出ます。但し、それが「くっきり」と見えるかどうか、感じられるかどうかは別ですけれど。
最後に、反省を込めて書いておくのですが、今後は積極的に東洋思想、算命学を学んでいることを人に言うのは控えようと思います。
また、面白半分に問われるままに命式を拝見するのも厳に慎もうと思います。
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