「宿命を逸れる」ということの怖さは、どんな星を持っていたとしても、その星のキラキラ光る性質の良さが出ないことにあります。
言い換えれば、
何をしても凡庸になる、
何をしても裏目に出る、みたいな。
たとえば、日本の教育委員会制度の延長線上にある義務教育の学校では「先生の言いつけを守る」子供が良い子だとされますが、
改革を志向する龍高星がたくさんあるような子供が先生の言いつけだけを守るような生き方をしている場合、
「言いつけを守る」という枠の中で生きることはできるかもしれませんが(長くは生きられないにせよ)、その子が何か突出した才能をこの世に顕現させることはありません。
もちろん、龍高星のもう一つの性質である忍耐強さが育つということはあるかもしれず、その忍耐の期間の中で改革の作戦を練りに練って過ごしたりすることはあるかもしれませんが、
少なくとも「先生の言いつけ通り」に大人しく生きている限り龍高星の良さは出ません。
それはつまり、「言いつけを守る」ということができたところでそれが意味ある資質として育つことはなく、端的にいえば「凡庸な“先生の言いつけを守るいい子”」になるということです。
これは、龍高星らしい生き方を抑え込み、その魅力にフタをして「普通のいい子」に徹してしまったことによります。
(本来、龍高星は教師を疑ってかかる質です。)
凡庸でもいい子ならそれでいいじゃないか。
…と、思われる方もいるかもしれませんが、子供の頃に親にフタをされて「いい子」であった「先生の言いつけを守る」龍高星は、大人になるにつれて、自ら動くことのない、自ら何かを担うこともない、何事も自分でやってみることをすることもない、すべてにおいて人任せ、他人任せの人間に育っていきます。
これは本来龍高星の成長に不可欠な「体験的に知る」ことをスルーしてしまい、「お仕着せの知識」で育ってきてしまったことによるもので、こうなってしまった龍高星は、親や人に頼り切って生きるようになり、それでいて反抗心を内に秘め、ときに破壊的な行動で家族やまわりの人を驚かせたりします。
いわゆる「引きこもり問題」というのは、こんなふうにやりたいこと(試したいこと)をやらせてもらえなかった龍高星の姿なのかもしれません。
(もちろん、全てが、ではないにせよ)
このように、
星の意味から逸れた生き方は凡庸さを生み、さらには星のネガティブな面が表出していきます。
なお、「ネガティブ」という単語を書くと、例えば「プライドの高さ」とか「選民意識」のようなものもネガティブな面だと感じる人もいると思うのですが、
これが牽牛星の場合であれば、必ずしもそれはネガティブ(陰転要素)にはなりません。
牽牛星は「選ばれた人間として高尚な役割を責任をもってもって果たす」(科挙に合格した文官というのが牽牛星の姿ですからね)というのが本旨なので、プライドの高さや選民意識を持つことによりその役割や責任をきちんと果たしていけるのであれば、それは実はポジティブ(陽転要素)となります。
※牽牛星のネガティブ(陰転要素)は何かといえば、
役目役割に対する無責任さ、
その役割・責務、仕える対象などに対して非礼、無礼を働く存在への甘さ(事なかれ主義)、
自信のなさや劣等感からくるまわりの人への迎合、
そしてそもそもですが「誇れる何か」を得られていない場合も陰転要素になります。
(なので牽牛星は何かしら資格を取ったり、誇れる立場を得る必要があります)
このように、他人から見たら「それちょっとどうなの?」と思われることも、星の本旨に沿っていればむしろ陽転の要素になることもあり、
その意味で、そもそも星の本旨は何か?を知ることがとても大事です。
本旨に沿っていれば、たとえ相手によっては嫌われたり叩かれたりしたとしても、それが砥石となり、先々どこかで大きく光ることにつながることもあります。
たとえ多くの人に好かれたとしても、それが本旨を逸れていれば、凡庸さとなり陰転につながります。
星の本旨、本来の星の姿を知ることはとても大事ですよ、というお話でした。
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