天中殺が明ける立春を挟んでのここ2ヶ月くらい、天中殺中に出会った人や天中殺中に親しくなった人たちとの縁がすごい勢いで切れていっていて驚きます。
天中殺中に結婚すると5年以内、
長くても10年以内には離婚するといわれますが、
やはり、天中殺というのは迷いの気なので、友人なども普段なら親しくならない人と親しくなったりもし、天中殺が明けると潮が引くように縁が途切れていくものなのかもしれません。
特筆すべきは、面白いほどに未練なく、
むしろスッキリ感があること。
決してその期間がつまらなかったとかひどかったとかではなく、
むしろ楽しく充実してはいたのですが、
今振り返るとなんとなく夢の中で過ごしていたような、そしてその夢から覚めたような、
現実感のない束の間の楽しみを終えて明るい世界に戻ってきたような‥そんな印象です。
楽しく、新しい発見や知らなかった世界を覗き見して過ごした時間が過ぎて、
現実に戻ってきた感じといえば伝わるでしょうか。
天中殺中は夢の中のようなもの、などといわれますが、じっくりたっぷりその世界と丁寧に対峙したからか、今回初めてその意味が分かった気がします。
ちなみに、
このスッキリ感は何となく納音的(破壊の後のスッキリ感に似ています)だと思いつつ、
ハタと気付いたのですが、
これは西方納音の名残でもあるのかな?とも思いました。(立春まで西方納音の年でした)
西方納音に「名残」があるのか分かりませんが、
この1ヶ月くらいで縁が切れた感じの人というのはなんとなく「西方的」で、「納音が1ヶ月延長したみたいですよ!」と言われても驚かない気がします。
というのも、
その人たちは「西方」というほど親しくはないものの、
「自分が選ばなかった人生を歩んでいる人」
という点で自分の過去を表象しているような存在で、その意味で「西方」的な存在だと感じていたので。
西方納音の「過去」というのはそういう存在も含み、
西方納音の「破壊」というのはそういう存在から離別や卒業というのも含むのかも?
…と、思ったのですがいかがでしょうか。
私には、今に至る前に2度ほど大きな転機があります。
一度目の転機は25歳の頃、
二度目の転機は32歳の頃です。
選ばなかった人生を、後悔したことはこれまで一度もないですが、それでもときどき、
「選ばなかったあの道を選んだらどうだっただろう?」
と考えることがあったりもしたのですが、
何の機縁かその「選ばなかった人生」の二通りをそれぞれ選んでいる人たちに出会い、
その「選ばなかった人生」を何年か覗き見てきて思うのは、
私はその道を選ばなくて正解だったということ。
(彼らにとっては正解だったとしても)
それをなんとなく感じ始めたこの一ヶ月、
その両方と、それぞれ別のきっかけながら割とパキッと明確に、その縁が途切れていく感じがあり、
それと同時に、これは「選ばなかった過去」から卒業するタイミングに来たんだな、ということを感じています。
あの人生は選ばなくてよかったんだな、
と、腹落ちでき、もうそのことを手放してもいいのかな、というか。
「選ばなかった人生」というのは、ときに美化されて、心の重りになることがあります。
しかし、その人生(それも驚くほど条件や状況がそっくりな)を選んでいる人に出会い、
彼女たちと様々に語ったり寄り添ってみたりしたことで、
手放した人生というのを冷静に、美化することなく眺めることができ、
改めて「この人生で良かった」と納得できた気がします。
これは天中殺が明けたからというより、
納音の折り返しでそれを手放せたということなんだろうと思いました。
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