支合って、
歪みある、人やものとの関係を排除する働きがあるんじゃないか?
と、思ったのですがいかがでしょうか。
支合の教科書的な意味は、
「自然の流れ」でつながる関係
地球の自転と同じ流れでつながる関係🌍
です。
他の言い方をすれば、
同次元融合などともいわれるのですが、
思うにこの支合の本質的な意味は、
「自然の流れ」で「強制的に」つながる関係、
「自然の流れ」に「強い力で添わされる」帰結、
…ということにあるのではないかと思うのですが、どうでしょう。
現代に生きる人たちは、
唯物論的思考に偏っているので、
森羅万象の神々が導く「自然の流れ」というものを軽視しがちです。
自然は曖昧であやふやなもの。
自然は克服すべきもの(管理すべきもの)。
自然は理解の及ばないもの。
そんなふうに考えている節があるので、
支合の意味である「自然の流れ」をどこかで誤解してしまうのだと思うのですが、
古代において「自然の流れ」とは、
絶対的命令のような力を持ち、
服従せざるを得ない(オートマチックに事象を引き起こす)強制力があり、
起こるべきことが確実に起こる機運であって、
自然とは、備え従うべきものであったのではないかと思います。
そう考えると、
支合というのは融合条件の位相法としてなんとなく吉効果的に扱われ、実際、支合がめぐると世に出て行きやすくなったり、モノゴトがスムーズに働いたりするものですが、
一方では、誤りを断ち、歪みを淘汰し、本来の道に合わない人やモノというのを人生から排除していく、
「本来のあるべき流れ」「自然の流れ」に連れ戻していく、ということに、けっこう強く問答無用的な効果があるのではないかと考えた次第。
もちろん、当人の生き方によりその効果の方向や濃淡には差があるだろうと思いますが。
それでも、
支合の効果というのは「自然の流れ」であってそれにより、
何かとつながる、何かを得る、という効果とともに、
何かを失う、何かを捨てる、何かを断ち切る断ち切られる、という現れ方をすることもあるように思います。
なお、2月はまさにその支合がめぐる月だったのですが、
「知人社長の友人である社長」という人に、それまで言えなかったことをガツンと言って、関係を断つことが出来ました。
(「断つことが出来ました」といっても、もともと先方からしつこくメッセージが来ていたことなどについて、はっきり迷惑だと伝えただけですが。)
しかしそれまで何となく、「知人社長の友人である社長」ということで我慢して、その社長からメッセージがくるたびにどーんと気分が落ちていく、何かが吸い取られる感があったのを、ようやくパキッと迷惑です、と伝えられたのでした。
先月は、そんなことが重なりました。
先日書いた「友達の友達」、
昨日の「知人社長の友人の社長」。
これは本質的には両者のおかげで「本来の在り方」を表明する機会、「本来の流れ」に戻るきっかけになったように思います。
一方で、本来の支合的なこともたくさんありました。
新しいブログへの移行や、より専門的なことを書く場所としてのnoteの利用開始、これらに付随するあれこれが、思っていた以上にスムーズに進んだ1ヶ月でありましたし、
まったく気持ちが向いていなかった実務系の試験が中止になったりもしました。
こうしたことを思い返しつつ、これは支合の効果だったんだろうと感じた次第。
私は今、進むべき道を進んでいる、という感じが確かにあります。
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