同じ干支が命式にある人というのは、生き方や行動に偏りが生じます。
この「同じ干支が命式にある」というその代表例は律音が命式にある場合ですが、螺状で同じ干支が存在する場合でも「同じ干支が命式にある」場合に該当します。
例①
丁戊丁
巳申巳
例②
壬戊戊
子午子
上記の例は①も②も該当する、ということです。
十大主星は日干と他の干との関係から出てくる星、
十二大従星は日干と十二支の関係から出てくる星なので、
律音にせよ螺状にせよ、同じ干支が命式にあるということは、
陽占にすれば少なくとも同じ十二大従星が2つ以上出るということであり、
さらに月干と天干が同じ場合など、けっこうな確率で十大主星も同じ星が二つ以上出てきたりするということになります。
よって、陰占に干支の重なりがあれば、陽占が示す考え方や志向、行動パターンなどに偏りが生じるのは当たり前といえば当たり前。
ですが、敢えてここで取り上げたのは、このところ、
陰占と陽占が交錯するその姿を認識すること
そこに思いを馳せる思考をすること
…が大事だということを最近よく感じるためです。
かねてから書いている通り、
陰占というのは自分では自覚できません。自覚できるのは陽占のほう。
一方、他人から見えやすいのは陰占の姿で、陽占はその方位の人にしか見えないものであります。
(例えば、北方の立場、目上の人からは南方の星は見えませんね。)
しかし、人間というのは、陽占の世界である自己認識だけで生きていけるものでもなく、
陰占の世界である他人からの認識だけで生きていけるものでもありません。
いってみれば、
陰占は器であり、陽占は中身であるといえるわけですが、
その器と中身の両方を備えなければ、全き人間として真っ当に生きていくことは難しいですよ、ということで、
つまり、
陰占と陽占の両方をもってはじめて一人の人間の全き姿を知り、それをもってその人の人生を論じることができる、
あるいは、陰占と陽占の両方をもってはじめて自分自身を知り、それをもって自分の宿命を消化できる、
と、いうこと。
…なので、
この陰占と陽占の両方に気を配り、目を配ることが大事だというお話です。
陰占と陽占は運勢発展のに向かうための両輪であるというお話でもあります。
陰占の姿から陽占の姿を思い、その陰占に与えられた姿を陽占の姿をもって消化する。
陰占と陽占というのは矛盾するものなので、簡単ではないわけですが、それがまったき人生を送るということであり、命の役割を果たし実りある人生に向かうには不可欠のこと。
今日のnoteのほうに、陰占の消化方法の細かいところなどを整理しつつ書きましたが、それを知らずとも、陰占を意識すれば自ずと消化できます。
ひとまず、陰占を意識することの大切さ、というのを覚えておいていただければと思い、こちらにも書きました次第です。
最近のコメント