申酉天中殺についての考察です。
申酉天中殺、というと世の中で華やかに活躍する人たちですが、
一方では奥行きや深みに欠け、万事にわたり表面的になる傾向があるといわれたりします。
これについて考えていたのですが、
誤解を恐れずに書けば、
そもそも申酉天中殺には、奥行きとか深みっていらないんじゃないかな?
と、思ったのですがどうでしょうか?
確かに、物事を深く見通し、表面的なものに隠れた真実を鋭く看破するような人から見れば、
「チャラチャラしている中身のない人」という見方もあるのだろうと思いますが、
世の中で広く何かを伝えたり、
世の中から広く注目を集めたりしようとするなら、
奥行きとか深みって、実はけっこう、邪魔になるものであったりします。
ものを大して考えない大衆に対峙するなら、同じようにものを大して深く考えないように見える人のほうが同じ次元という意味で意思疎通しやすいものですし、
表面的なものに注目する大衆を相手にするなら、同じように表面的なものを重視する、見た目に価値を置く人のほうが、うまく対処ができるだろうと思います。
申酉天中殺はアイドル的な立ち位置を目指すといわれたりしますが、
この表現は端的に申酉天中殺の在り方を現していてるのかもしれないな、と思います。
例えばとても深く何かを考えていたとしても、それを悟られることなくにこやかな笑顔で注目と歓心をかっさらう。
…観衆の中心に立つには、そういう「何も考えていない感じ」が不可欠であるように思います。
ちなみに、こうした申酉天中殺の性質は、一般的には、「社交的」とか「世渡り上手」という言葉で評されます。
なぜ社交的になれるのかといえば、深みがないため。
なぜ世渡り上手かといえば、表面的な付き合いしかしないから、ということになります。
そしてだからこそ、
その延長線上において、結婚しても配偶者と強く固く結びつくよりも、自分が社会にでて活躍する方向に向かったりもします。
…ちょっとネガティブに聞こえそうなことを書き連ねてすみません。
なぜこうしたことを書いたかといえば、
申酉天中殺の人たちはこういう指摘を華麗にやり過ごし、「世渡り上手」に徹するのが良いだろうと思ったので思い切って書いてみた次第。
軽やかな世渡り上手、というのは、恩恵であり役割です。
奥行きや深みがないから、目上の人に歯向かうこともなくかわいがられることができ、
それによって継承運を全うすることができます。
言い換えれば、
そもそも奥行きや深みというのは非継承運の人に必要なものであって、
継承運の人には無用の長物とさえいえるのではないかと思いますがいかがでしょうか。
人生においても、世の美徳とといわれる資質の全部を手に入れることはできません。
その意味で、申酉天中殺の人たちというのは、奥行きとか深みというのはこの際思い切りよく手放して、世渡り上手な社交性に振り切って生きるのが良いのだろうと思います。
手放すコト、比重を置くコト、その選択を誤ると、人生はとてもアンバランスで不効率、そして傍から見てとても不自然なものとなっていきます。
よって、自分の役割・自分の資質に比重を置き、それ以外のことは必要最小限にとどめるのが良いのですが、
そもそも天中殺の役割や比重を置くべきところと捨てるべきところというのは、
どの天中殺であっても自分ではなかなか認識できにくいものなので、ちょっとくっきり明確に、書いてみました。
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