日本というのは古来とても調和的な社会ですが、それを支えてきたものの一つに「敬語」があります。
敬語とは、
自分と相手の上下の関係を明確にし、
その役割を明確に分ける「システム」であり、そのシステムに則って在ることによって調和の組織・社会の一員となることができる、
そういう仕組みを支えるシステムの一つが敬語です。
算命学において上格・下格というのがあります。
上格とは調和的な組織や社会の表世界で活躍し、下格は動乱の世や発展期の混迷の世において活躍するといわれますが、
これを敬語の話と絡めれば、
上格は敬語のシステムが機能している社会(=組織だった調和の社会)に向き、
下格は敬語のシステムの外側の社会(=既存の組織や調和がない自由で放従な社会)に向くといえるのではないかと思います。
具体的には、
天干に守護神がある場合を上格、
地支に守護神がある場合を中格、
守護神が全くなかったり忌神が天干にある場合を下格といいます。
現代社会は「いい成績をとっていい学校に行き、いい会社に入りましょう」という風潮が強くあります。
いってみれば、上流社会を目指すことをもって是とするきらいがあるのですが、
算命学的観点でみれば、それが合う人合わない人というのがいて、下格の人などがそんなふうに親や先生から「上流社会を目指してがんばれ」などと育てられると、たいへんに苦しいのではないかと思います。
話は少し変わりますが、
今のような、一億総「上流社会を目指しましょう」的な価値観が強くなったのはいわゆる団塊の世代の価値観、教育によるところが大きいのではないかと思うのですがどうでしょうか。
団塊の世代というのは戦争直後に生まれた世代、言い換えれば動乱の時代に生を受けて幼少期を過ごした人たちです。
動乱の世は革命の世でもあり、下克上を目指す機運があります。
そう考えると、その時代に育った人たち(=団塊の世代)が、庶民大衆的な家に生まれた人も含めてこぞって上流社会を目指したのも納得できるところです。
それはそれで納得できるにせよ、
その下克上的な思想をもって、その後の平和期に生まれた団塊ジュニアを育てたところに何か歪みが生じたのではないか?
それが氷河期世代問題の遠因なのではないかと感じるこの頃。
命式だけでなく、
生まれた時代というのも影響があるのではないかと感じた話でした。
話を戻して上格と下格ですが、
それに囚われる必要はないものの、
遅くても30歳くらいになるとそれぞれ自分に合う合わないというのが割と顕著に感じられ、自覚できるようになると思います。
もし何か違うと感じることがあれば、
一度立ち止まって自分に向く世界というのを探し直すということをしてみるのも良いだろうと思います。
本日、澄み渡るような空を眺めながらそんなことを考えました。
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