これは私の感覚なのですけれど、
何か「これをやろう」と思いついたことを、
何か理由をつけてやらなかったり、後回しにしたりするたびに、
自分の中で何かが死んでいく気がします。
そのことに、ここ何年か、なんとなく気づいていたのですが、
このコロナの自粛期間に入り、自分の時間が増えて、いろんなことを考えつつ静かに観察するようになってみて、
そのことに確信を持つようになりました。
例えば、
「これを書こう」と思ったとして、
でも、「少し専門的すぎるかも」とか、「ちょっと文字にするには詰めが甘いかも」
という内容は、言葉をかみ砕いたり、詰めの確認や調べ物をする手間を惜しんで後回しにする、みたいなことを前はけっこうしていました。
(そして、その半分くらいはそのまま書かずに多分終わってしまいました。※中途半端なまま書いてはいません。)
でもこのところ、
思いついたことや、これを書こうと思ったことは、
基本的に全部拾うようにしていて、
そのために、他のことが後回しになったり、ときに睡眠時間が減ったりもするのですが、
それでも「これを書こう」という閃きを、余さず拾っていることによる充実感というか「やり残してない感」というのは確かにあるなと思います。
あるいは、
「これをやってみよう」
と思いついたことについて、
「ちょっと突飛かな」とか「人を巻き込むには早いかも」とか「みんな忙しいかも」と、アクションに起こすことなく気にしつつも素通りしがちだったのですが、
このところ、「とりあえずやってみよう」とか「声だけかけてみよう」ということをしていて、
それが実のあることになるかは分からないけれど、とりあえずそんなふうに自分の人生に石だけ投げておくことで、
そのアクションが、直ぐか後でかは別にして、どこかで波紋を作って戻ってくることを期待できる状況をつくっただけでも、なんとなく「やるべきことはやった感」というのはあります。
そういう行動というのは、
つまり、
「気の流れをそのままに生かした在り方」
「気の流れを阻害しないあり方」
…というのと多分同義で、
そうやって、流れてくる「気」に気づいて応じていく、
あるいは、流れてくる「気」を捉えて打ち返していく、
…ということをすることで、健やかに気が流れていく日々となっているような気がします。
算命学、というか、東洋思想の世界観、
空間やら気の流れやら、というのが分かってくると、
そんなふうに、「自分の思いを拾っていく」「自分の思いを現実のアクションにしておく」
ということが、他の何よりも優先順位が高いことに気づきます。
目の前の仕事とか、常識的であることとか、何かのルールなどによって、
「やらなければならない何か」をすることより、
自分の思いを拾い、きちんとそれを放っていくことが大事。
…と、いうことに気づくな、と思いますがいかがでしょうか。
例えば、
私は、日干があちこちから剋されているのですが、
「これをやる」と思いついたことに打たれるようにアクションを起こす、ということが大事であるようで、
そんなふうに突き動かされるままに、ブレーキをかけることなく何かをすると、とてもスムーズな感じがあります。
あるいは、
日干が生じている気などの影響でいえば、
自分が思いついた何かを言葉にする、伝える、見せる、表現する、ということについて、
センシティブなほどきちんと調えることに拘ることで安堵するとか。
(「調舒星」の「調」は調える、「舒」は「ゆったりと静か」という意味がありますけれど、なるほどと思います。)
そして、
日干を生じる気でいえば、
何かを学ぶときは、能う限りあらゆるものから学ぶまでは満足でき難い、
その「満足」を得るまでどこまでも学びを究明していくことではじめて気分良く過ごすことができる、とか。
そういう自分を構成する気の流れを、一つ一つ健やかに流していく、発揮していく、ということを止めないでいることが、健やかであるために必要なんだなぁ、ということを感じています。
これは、
自由に自分の思うがままであることの大切さ、
と、言い換えることもできるのですが、
そういう「ブレーキをかけない」ことで健やかにのびのびと生きていける、
ということに気づけてよかったな、と思います。
ブレーキをかけるたびに、何かが死んでしまう。
あるいは、
「安全弁」を準備するごとに、何かが萎れてしまう。
そういうことに気づくと、
流れてくる「気」に気づいて応じていくことの大切さにも気づくことができます。
こうしたことは陽占の星の姿なのですけれど、
案外と、陽占の星の姿として意識しなくても、自分を取り巻く気の動きというのをよくよく観察していると、流れている「気」とその「気」への応じ方、というのが分かるように思いますがどうでしょうか。
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