「隴を得て蜀を望む」という言葉があります。
後漢書において、武功をたてた大名が、王様であった曹操に隴という国をもらったのち、さらにまた手柄を得たときに、こんどはその隴よりも大きな蜀という国を所望したということをいっている言葉なのですが、
この言葉は人間の欲というのを示しているとともに、
人間が、段階的に成長するものであることも示しているなと思います。
先日、世の中に出ていく、立身出世する、お金を稼ぎに行く、ということをするときには東の星を使います、ということとともに、
その東の星はきちんと実践的・体験的に使ってみなことには、その星の姿というのを自分のものにすることはできないだろうということを書きましたが、
そのことにも通じるな、と思いましたがどうでしょうか。
これは、
人間、いきなり大きなものは望めない、
よって、小さなものから一つ一つ段階を踏むように大きくしていくのが安定もするし、うまくいく。
…というのもさることながら、
小さいながらに一段階でも登ってみれば、上る前よりも少しは高い視座を得て、
より「高い」と思っていたものがそうほど高くはないところにあることに気づく、ということのほうが、実際には大きいのではないかと思います
あるいは、中村天風先生が、その著書『盛大な人生』において、
「本当の欲望というのは楽しい欲望のことなんだ。
星がりゃ欲しがるほど楽しいのが本当の欲望なんだ」
と書いておられますが、
何かをやってみて、できたらさらに次へ次へと向かいたくなるものが「自分の本質に合ったものである」、といえ、
その先に、心身の豊かさ、心身の充実があり、人間はそちらのほうこうに引き寄せられていく(東方に向かっていく)ともいえるのではないか、と感じています。
こういうことは、
自分のことでよくよく吟味してみないことには分からないもので、
つまり東の星は使ってみないとどんなものか分からない、ということ。
ブログを読んで、本を読んで、「なるほど」と思うことと、
自分の人生に照らして「なるほど」と思う、その「なるほど」の質には天と地ほどの差があります。
東の星へガツガツと向かう、
そのことについて、「欲深い」ととらえる、感じる方もおられますが、
これは「成長」であり「進化」ではないかな、と最近私は思っています。
(よって、同じようなことを繰り返し書いています、すみません。)
「もっと」と望むことができるというのは、案外と簡単ではありません。
とりわけ30代も後半を過ぎ、40代、50代となってくると、欲に伴う煩わしさよりも、無風の平穏を望むようになったりします。
それは「奥ゆかしい」「謙虚」というよりも「怠惰」「停滞」なのではないか。
「欲」をもって成長進化に向かうことができるなら、そのほうが良いのではないかな?と考える次第であります。
こうしたことを踏まえれば、
ときにネガティブに語られる「エゴ」の星というのも、それが徳目として挙げられていることの意味が分かるのではないかと思いますがいかがでしょうか。
ちなみに、天風先生によると、「自分の本質的な欲」=「自分らしさの発揮」においては、疲れるということがないそうです。
けれど、多くの人はその尊い「自分の本質的な欲求」、神髄に向かうのがおそろしいので、他の欲・つまらない欲で時間やお金をつかってまぎらわしているのだとか。
「好きな人のことをしているときには、ちっとも疲れない。
嫌な奴に頼まれると、半紙一枚持ったってくらびれる」
自分はどうだろう?
半紙一枚持つだけで疲れるようなことをしていないだろうか??
…ちょっと振り返ってみようかな、と思いました。
※今週末までにコメントバックします!バタバタしていて遅れていてすみませんー。
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