「破壊の衝動は、創造的でもある」
というのはピカソの言葉ですが、
ものの本質としては、破壊こそが創造の源である、といえるのではないか、と思うのですがどうでしょうか。
本日、ひょんなことからとある私の「数少ない華々しい成果」の報告書が、回付されずに傍系の上司が手持ちにしていたということが発覚しました笑
「笑」とつけたのは、
銀行にはほんとうにいろんな人がいて、
モノゴトをわざと歪めて吹聴する人や、
懇意先との関係を壊すために、わざといちゃもんをつけて顔をつぶすとか、
大事な予定があると分かると不急のことをさも至急であるかのように言って残業させる人とか…
そういう人をたくさん見てきたので、
「いつか来た道」的に、笑ってしまったからです。
…ちなみに、若い頃なら怒ったでしょうが、
本日は、それに気づかなかった、阻止できなかった自分の反省材料としてありがたく受け取らせていただきました。
多分、もう少し偉い誰かにそのことを訊かれたら、「報告書をつくるのを私が途中で止めてしまいました」と、いいます。
「飲み込んだ分」を、どこかで返してもらうための「貸し」ですね。
その「貸し」返ってくるの?と思う人がおられると思いますが、
自分の人生を振り返ってみれば、だいたいにおいて「どこか」から間違いなく返ってきているように思います。
たいていは、その「理不尽」を笑い飛ばせるような気分になれた頃に。
なので、早く笑い飛ばしたほうが、自分にとって「お得」であろうと思っています。
心の中で何かが壊れていたとしても。
冒頭の「破壊の衝動は、創造的でもある」という言葉は、バンクシーがシュレッダー絵画『風船と少女』の写真をインスタにあげたときに添えられた言葉でもあるのですが、
あの絵画(シュレッダー後の)を見ても分かるように、「破壊」というのは「消滅」ではありません。
既存のモノを「破壊」するという場合、それはカタチを変えながらも存在を維持しています。
つまり、破壊とは、既存のものをデフォルメする、その一形態であって、
ある意味では「進化」の一形態であり、さらにいえば破壊の上での創造というのは、決して「新規出発」などではなく、
その姿の変容の奥にあるものをよくよく眺めれば、「継続」「維持」の先にであるものだろうと思います。
その意味で、
破壊と創造、というのは、既存のモノを壊してまっさらなところに新たに創るのではなく、
既存のモノへの視点や捉え方、働きかけ方を大きく変化・変容させた先において「おのずと起こる」避けがたい変化のようなもの、それが創造なのではないか、と思います。
創造といえば龍高星ですが、
龍高星というのは水性の星で、水性というのは北方であり、過去の歴史を尊ぶ方位であります。
またその龍高星の成り立ちをみれば、自分と同じ陰陽の干から「生じられる」ことから現れる星であり、
自分から働きかけるとか、自分の意図で創造するというのではなく、己を滅して受け取ること姿が本質としてありますね。
そう考えると、「理不尽なこと」も、それが目上(北方)によるものならば、それを大人しく受け取って、
そこで「何かが壊れた」としても、その先において創造の機運がめぐるのを待つのがよく(=その目上を乗り越える機が熟すのを待つのが良く)
熟した木の実が自然と枝を離れるのを待つが如く、木の下でのんびりと一献やるのもよかろう、というお話です。
これは、気図法・八門法にみる帝王学・処世術の応用です。
本日、たまたまそのことをnoteのほうにまとめたのですが、おかげでその「事件」を穏やかにやり過ごすことが出来てよかったな、と思います。
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