「好き」をつなぐ先にある天職の兆し

先週末、何年振りかに会った甥っ子が欲しいというロボット🤖をプレゼントしました。

「ロボット🤖」と書きましたが、

レゴのプログラミング教材で、いわゆる知育玩具です。

このロボット🤖、値段もさることながら、その内容が私から見ると難解すぎて、小学五年生の彼がそれを使いこなせるのか懐疑的ではあったのですが、

対象年齢をクリアしていたこと、

「大丈夫🙆‍♂️」と笑顔で答えるその言葉を頼りにネットで購入、

明日には彼の家に届くよう。

私たちの世代は、

「できること」より「やるべきこと」に囲まれて育ちましたが、

最近は、「できること」を伸ばす教育の良さが再確認されているようなので、

もしそのロボット🤖が彼の才能を伸ばすことに寄与するなら、まぁ安い買い物であったのではないかな、と思います。

もしそのロボット🤖を使いこなせず、

途中でポイッとしてしまったらどうか?

私はそれでもいいかな?

と思っています。

世の中「天職」というものが万人各々にあるものだということを信じる人は少ないですが、

「天職」というのはやはりあります。

なぜか気持ちが向かうこと、

習ったり携わったりする前から「自分にはできる」と思えること、

困難にぶつかっても、それを楽しんで取り組んで行けること。

そういうことは誰しもに何かしらあるものですが、

それは天職の兆しであり、

そうした兆しを大事に育てていった先で、

それが天職になるのか、あるいはもっと別の何かにつながるのかは分かりませんが、

その兆しを頼りに進んでいくことで自分の天職に出会えるのではないかな?と思っています。

もしロボット🤖をポイッとするならそれはそれが彼の「天職の兆し」ではなかったということであり、

それが分かるだけでもよいのではないか?

今後、同じことで迷うことはなくなるわけで、その分他の可能性を試す時間ができるなら、それも無駄ではないんじゃないかな?

…いうことです。

小学校の卒業文集などで

「将来なりたい職業」

というのがたいてい書かされますけれど、

それらの職業をイメージで選んでいる子供というのが結構います。

しかし、私自身がそういうイメージでなりたい職業を選んだ小学生だったので余計に思うのかもしれませんが、

本来、「将来なりたい職業」を文字に落として誓うなら、それはやはり何かしら実体験をもって選択したものであるべきだろうと思います。

実体験をもって「これが好き」というものに出会った人というのは本当に強くて、

例えば吹奏楽部だった人にとって音楽が生涯の友達になったりするのに似て、

人生の支えを得ることができます。

ちなみに、

天職というのは命式からも推し量ることはできるのですが、

それ以上に大切なのは「これが好き」という自分の思いです。

自分の好きなことを命式に沿って消化していくことが天職であり、自分の「好き」なしには何も始まりません。

その意味では、大人になってもそうした「好き」をつないでいく在り方が望まれるように思います。

だいたいにおいて、

「これが好き」と心が発するものというのは宿命に沿っているものでもあります。

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Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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