「溺れる犬🐕は石もて打て」
という言葉があります。
元々は、
「水に落ちた犬🐕は打つな(不打落水狗)」という言葉だったのを、魯迅がひっくり返して作った言葉だそうです。
詳細の意味はぐぐると出てくるので、
ぜひぐぐってみていただきたいのですが、
動乱の世界で生き残ろうとするならば、
「溺れる犬🐕は石もて打て」
くらいの心持ちが必要なんだろうと思いました。
溺れる犬🐕を打たずに救うのは、確かに道徳的で美談にはなりそうですが、
例えば政界とか経済界、芸能界など各界の上の方で生きていく人たち、
あるいは優秀な人が集う大きな組織などにおいては、
そういう甘さは忌み嫌われる傾向にあります。
考えてみれば、
平和で豊かな世界であれば、
溺れた犬🐕を救う余裕もありますが、
生きるか死ぬかの動乱の世界であれば、
溺れた犬🐕を救って自分が命を落とすかもしれず、それによって家族や周りの人たちに迷惑をかけては元も子もないわけで、
至極もっともだなぁと思います。
命式でいえば、
宿命中殺がある人とか、
天将星がある人とか、
完全格および破格の人とか、
全濁の人などというのは、
多分、「溺れた犬🐕を石もて打つ」べき人です。
ただいま現在の日本🇯🇵は、平和な豊かな時代でしょう?
…と思った方は、多分上記の命式に当てはまらない人ではないかと思います。
世界は1つのようでいて、
実は人によって見えている世界は千差万別で、
同じただいま現在の日本🇯🇵に生きている人でも、
平和な世界に生きている人と、
動乱の世界に生きている人がいます。
見え方が違うとか、
受け取り方が違うとか、
取り囲む人との関係性が違うとか、
いってみればそういうことなのですが、
自分の在るべき姿勢を逸れるとなかなかうまくいきません。
学校では、
「弱いものを助けましょう」
と教わりますが、
そういう処世術が奏功しないひとも、
かなりたくさんいます。
魯迅さんは、多分動乱の人だったのでしょう。
どんな権威が掲げている方針でも、
どんなにベストセラーになっている処世術とかハウツー本でも、
当てはまる人と当てはまらない人がいます。
人や本の言葉や提案?というのは、
そうした言葉や提案が、
どちら側に立ったものなのかを吟味して、
置かれた環境がどちら側なのかを見極めて、
自分がどちら側の人間なのかを認識した上で採用するかどうかを決める必要があるだろうと思います。
間違うと、ちぐはぐなことになります。
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