方位取、というのを真面目にやろうとすると、
「ダメな方位」というのがあまりに多くて驚きます。
「良い方位」というのはせいぜい一つか二つで、だいたいは「ダメな方位」。
現代の、個人の権利がおおらかに認められた時代に生きているとなんとも窮屈に感じられて、
方位取など真面目にしている人というのは余程の人なのだろう、と以前は思ったものでした。
けれど、算命学を学び始めて思うのは、
本質的に「正しいこと」「正しい方向」というのは、そういう「限定的」なものであり、
「限定的」なものだからこそ、くっきりと「正しい」ものであるのだろうということです。
「これもいいよ」「あれもいいよ」というのは、おおらかに感じられるものですけれど、
言い方を変えれば「なんでもいいよ」ということでもあって、
「あれもダメ」「これもダメ」でも、「ここならいいよ」という場合の「ここ」というのは、
相応の重みのある「いいよ」なのだろう、と思うわけです。
方位取というのは、継続的に意識していると、割とくっきりとその効果というのが分かるようになります。
これは、算命学の命式を意識するようになるとそれにかかる現象がくっきりと見えるようになるのに似ています。
言葉で説明するのはなかなか難しいのですが、
例えば、
英語の構文をせっせと勉強しているうちに、あるとき英語の長文がすらすらと読めるようになるとか、
一ページ読むのに30分くらいかかるような専門書を一週間くらいひたすら読んでいるとそれがすらすら読めるようになるとか、
そういうのに似ている気がします。
ある種の型のようなものを捉えられると、その型が引き起こす現象を理解できるようになる、みたいな。
ディスカッションなどをするときに、
慣れたチームでのディスカッションなどの場合、それぞれの議論のパターンというのがだいたい分かるので、
多少突飛な内容でもスムーズに議論が進み、ある種の予定調和的な理解を得ることができるものです。
一方で、まったく共通の基盤のないチームでのディスカッションなどになると、
単語も文脈も理解できず、それぞれに「理解できません」とは言わなかったとしても、
極めて表面的で、イマイチ生産性のない議論に終始するもの。
方位取というのは、
その型を理解している場合には、前者のような効果があり、
その型を理解していない場合には、後者のような効果に終始する、というお話です。
これは方位取の話ですが、
算命学の命式を読むという場合も、やはり型に慣れる、型を理解する、ということが大事で、
型やパーツをコツコツ勉強していると、あるときハッとするほどくっきりと命式が読めるようになったりします。
これは、派手で大味なことを学ぶよりも、型やパーツを学ぶ方が大事であるということでもあります。
もっとも、くっきりはっきり見えるということが必ずしも幸せとは限らず、
相応の痛みと責任を伴うものでもありますので、それを推奨するものではありません。
どんなネガティブな面があるかといえば、
例えば、陰の気に取り込まれそうになる、というのがその一つ。
算命学を学んでいると、ときに陰の気に取り込まれる、ということがあります。
清明・清浄の気を大切に、陰の気には気を付けたいものです。
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