昨日は、立皇嗣の礼がありましたが、ちょうどそのタイミングで、方位取りを兼ねて熱田神宮に参詣してまいりました。
今年はなかなか旅行が難しい社会情勢ではあるのですが、
日ごろのお礼に伺うことはやはり大切ということで。
神無月では神さまがおられないというので、霜月に入ったところでお礼参りに伺った次第。
神社の清浄の気に触れると、自らを静かに振り返ることができ、また気持ちが引き締まります。
父が他界した後、伊勢神宮に参詣した際に神様にお約束した自分が果たしていく役割というのがあるのですが、
神社に参詣する際は、
その役割の道を少しずつ歩んでいること、その役割を果たすにあたり多くの支えをいただいていることのお礼を申し上げています。
日ごろから、近所の神社にも参詣しているのですが、
折々に大きな神社に参詣することで、より一層その気持ちを確かにすることができます。
さて、その熱田神宮から電車で30分ほどのところに「徳川園」という尾張徳川家の邸宅跡にある庭園があります。
せっかくなので、その徳川園にも足を運び尾張徳川家に代々伝わる武具や刀剣、家具や調度なども併せて鑑賞してまいったのですが、
本当に一つ一つが細密に造られ、日々の生活を丁寧に送っていたことが伝わってくる品々ばかりで感激しました。
モノには魂が宿る、といいますが、
資本主義社会の、大量生産大量消費ではない世界観で生きていた人たちの生きざまが、
そうした品々から伝わってきて、何か大切なことを教えられたような、そんな気がしています。
表面的なところをなぞるように、上滑るように生きるのではなく、
丁寧に、細密に、重ね造り込むように生きる大切さ、とでもいうか。
人生とは、
自分が大切に思うもの、自分がこだわりをもって選択するものと、
自分が大切に思う人、自分を大切に思う人たちがこだわりをもって選択するものの集合体、とでもいうか。
「初音の調度」と呼ばれる、徳川家光の娘千代姫が、尾張徳川家二代目の光友に嫁いだときに持参した婚礼調度があるのですが、
それを観ていると、
この千代姫という人を取り巻く人たちの思いと共に、それを大切に使っていたのであろう千代姫本人の心というのも伝わってきて、
人間というのが、一人で成り立っているわけではないのだということが強く感じられました。
これは、
算命学において人は常に環境の産物であるといわれることに通じる世界=
陰占において年干支と月干支と日干支が構成する環境の捉え方に通じる世界、である、ということを感じた、ということなのですが、
たぶん、
自分を取り巻く人やものへの拘り、というか密度のようなものが、
くっきりすればするほど、その密度のようなものが高まれば高まるほど、
自分自身の存在感自体もくっきりとし、密度が高まり、確りとしたものになっていくのと同様に、
自分に対する「自分を取り巻く人やものの拘りや密度」というのも、
それがくっきりすればするほど、その密度のようなものが高まれば高まるほど、
自分自身の存在をくっきり、密度高く、確りとさせることに寄与するのだろうと感じた、というお話です。
言い換えれば、
自分が自分らしくしっかりとあるのはもちろん大切なのですが、
自分を取り巻く人からみた自分というのも大切なのだろうということで、
そのために、自分を取り巻く人にとって有意の存在であろうとすることも大切なのだろう、ということです。
考えてみれば当たり前のお話ですが、
熱田神宮に参詣し、
その帰りに徳川美術館で「初音の調度」を鑑賞し、そのことを深く理解できた気がしたので、記録として書いておきます。
「自分を取り巻く人にとって有意の存在であろうとする」ということについて、
これまであまり真剣に考えたことがなかったのですけれど、
精進しようと思います。
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