本日は父の誕生日でした。
…本日、といって、日をまたいだので厳密には昨日が、父の誕生日。
11月28日は、松平健さんとか里見浩太朗さんと同じ誕生日ですが、
父もそれくらい素敵な人でした笑
そんな父の誕生日、
ご相談の対応とnoteの投稿を終え、ひとまず自分的な「仕事」を完了してから、
父とちょっと語らいたいと思って、近所の日本酒に合うお料理を出してくれる和食屋さんへ行ってまいりました。
「近所」といって、徒歩で数分のところにあるお店。
カウンターがあって、父と二人(現実には私一人)でいっても大丈夫なお店です。
そのお店で、
日本酒の熱燗をを1合、2合と飲みつつ、
「一人分」よりは多めのつまみを戴きつつ(父と一緒ですからね)、
隣の人の声が聞こえないくらいのBGMの中で父に語り掛けつつ父の言葉に耳を傾けつつ過ごしていたのですが、
その宴もたけなわというところで、
1席空けてとなりに座っていた、一人で来られていたらしい男性に声をかけられました。
その人が曰く、
「お連れの方、帰られたんですか?」
なんのことだろう?と思って訊いてみたら、
その方がお店に入ってきたときには、私の隣に人がいて、その人が優し気に私に寄り添っているのが見えたのだとか。
私の父は、人にも自分にも、そして私にも、とても厳格な人だったのですが、
その人曰く、私の隣に座っていたその人は、優し気に私のことを応援しているように見えたのだそうです。
あぁ、父は確かにここにいたんだな、
父に問いかけ、返ってきたあの答えは、確かなものだったんだな、
と、それを、その声を掛けてくださった方のお蔭で知ることができた、
本日、つい先ほど、そんな出来事がありました。
以下、ちょっとセンシティブな内容になります。
算命学において親子というのは、必ずしも現代においてイメージするような穏やかさに満ちたものとは限りません。
親子というのは自分の生きる環境を構成し、
どちらかが活きれば、どちらかが損なわれるということも往々にしてあり、
ゆえに、子供が一人前になり、宿命を健やかに消化して立派に一人で世の中に出て行けるようになると、
そこで先に生まれた親の方の命が絶たれるということがあります。
いうなれば、「親子のバトンリレー」のようなもの。
…もちろん、そういう親子関係ばかりではありませんが、世の中を見回せば、そういう親子というのも多くいることは分かるだろうと思います。
そういう親子というのは、現実において親子として過ごす時間というのは、
「そういう親子」ではない親子に比べて短くなるものではあるのですけれど、
実は、そんなふうに親子で両立しえない関係においてどちらかが先に現実世界を離れた場合、
その先に現実世界を離れたほうは、現実世界に残ったほうを、全力で応援してくれているんじゃないかな?と思ったのですがどうでしょう。
だとしたら、
その応援を感じつつ、折々に感謝を伝え、その応援してくれる思いに報いんとする姿勢というのは、
とても大切な意味があり、その先において大きな効果があるのだろうと思います。
これまでそれと意識していたわけではないのですが、本日、そんなことを強く感じた次第。
家系・家族のつながりというのは、現代において私たちが認識しているよりもずっと強い意味と効果があるのだろうと思います。
父に恥じない、家系に恥じない自分であろうという決意を新たにしました。
…家系の柱が中殺されていても?という疑問をちらりと抱いたのですが、
家系という枠を外れ、家系の仕事とは別の道を生きるにしても、親や家系が自分の環境を構成していることには変わりなく、
親孝行や先祖供養が宿命中殺の持ち主にとっても大事であるのと同様に、
親や家系に恥じない自分で在ろうという姿勢は大事なのではないかと考えます。
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