新橋で立ち食いトンカツを食べていたらなぜか『天気の子』を観に行こうという話になってT・ジョイ PRINCE 品川で観てきました。
※以下ネタバレを含みます。
新海監督は古代神話をベースにした作品を描かれるという点で好きな監督ですが、
おそらくは監督自身の中にはくっきりとあるのであろう世界観を、必ずしも映画本編から読み取れない、という点でストレスフルに感じられる監督でもあります。
『天気の子』もやはりそういう心ゆかしく感じられる一方で、すべてを掴めた感はまったくなく、消化不良な作品でした。
古事記の三貴子である天照大神(太陽神)、月読命(月神)、素戔嗚尊(海神、龍神)がベースにあるのだということは分かりましたが、
きっとものすごく緻密に積み上げられたのであろうこの作品を「分かった」感じはまったくありません。
こんなふうに欲求不満を残すのが新海監督の作戦だとしたら、まんまとはまっているのだろうと思います。
そんな中でこれは『君の名は』でも同様のものを感じたのですが、
『天気の子』でも、
人が抱く「強い願いや想い」というのはとても尊いもので、
そうした思いを抱く機会を得られたら、
誰がなんと言おうと、
世の常識からどれだけかけ離れていようとも、
その思いを手放してはいけないんだろうな、ということは改めて強く感じました。
そして、たとえ何年も時間がかかったとしても、その願いや思いを抱き続けることの大切さやら、
モノゴトが成るには時間がかかることもあり、また相応の忍耐力が必要であることなども、『君の名は』と同様のメッセージであったように思います。
言い換えれば、
思いは空間に浮かぶけれど、
それがカタチを得るには時間が必要、とでもいうような。
なお、古事記ブームが始まったのは2012年の古事記編纂1300年記念行事がきっかけだと思うのですが、
その時期、日本🇯🇵は時代論における教育期の真っ只中。
そう考えると、
日本人が戦後レジームから脱却し、日本人としてのアイデンティティを確立していくために必要なものの一つが古事記で、
だからこそ新海作品に大きくスポットがあたっているのかな?とも思っていますがどうでしょう。
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