善悪、清濁、陰陽が深さを増す先の同一化

世の中のスタンダードというのは基本的にシングルであるべきといわれますけれど、
実際のところをいえば、
ダブルスタンダードでないと立ち行かないものです。

企業などでも「幹部向け情報」と「一般社員情報」というのが分けられるわけで、
幹部側に位置したことがある人ならば、ダブルでなければ立ち行かない、ということはご認識のことと思います。

ちなみに、
ドラマにせよ漫画にせよ、
この「ダブル」を対立させた構図のものが売れるものです。

水戸黄門は勧善懲悪のドラマですが、
あれをもって「善」だけをみていては世の中の本質を見落とします。
あのドラマは、実際には「そちも悪よのう」というような「悪」があってこそ成り立つものであり、

歴史の本質でいえば、
水戸黄門が演じる善というのは大衆向け、一般社員向け、
悪役が演じる悪というのが支配層向け、幹部向けであり、

水戸黄門の表面だけを見ていては、悪役は悪役でしかないわけですが、
世の中を広く見渡してみれば、
実際には彼らが演じているのは、「必要悪」であり、そこには単純な「善」よりも複雑さを伴うが故に、
学問を修めた支配層、業務の様々な面を経験した幹部層が担っています。

言い方を変えれば、
悪というのもまた、世の本質であり不可欠なものなのですが、
現代のような清さがシステム的に前面に出るような時代にあってはその表舞台での悪の出番は多くなく、
結果として忌避すべきものであるかのように扱われる傾向にあります。

こういうことを書くと、若い人、あるいは経験の浅い人などからは「権力寄りですね」などと指摘を受けるのですけれど、

「悪」というのを忌避することは即ち「善」の崩壊につながるものである、
というのは陰陽論を紐解けば自明のことであります。

昨日、「濁」ということについて書いたのですが、
人間は、誰しもある程度の「清」と「濁」を持っています。

よって、人体星図に表出する星の内容にかかわらず、ふつうの清濁は内包しているもの。
これは、人間が命式にかかわらず、人体星図にかかわらず、ある程度の五行を備えているのと同じに、
生きる上での最低限の清濁というのも備えています。

けれどその、最低限、ふつう、ある程度、というレベルを超えて何かをする、というときに、
命式の五行の偏りや人体星図の清濁やらが冴え冴えと光始め、その作用、才能、能力というのがくっきりと発揮されるようになります。

逆に言えば、
最低限、ふつう、ある程度、というレベル・次元の範疇で生きている限りにおいては、
五行の偏りや人体星図の清濁といったものも緩慢にしか現れず、その作用、才能、能力というのも、「なんとなく」の域を出ないもの。

このあたり、入格しいるのに偏りなく生きているような場合などにおいて、格の姿がまるで感じられないようなケースというのも同様で、

そもそも人間というのは、
何かしらの意識や意欲の発揚なくしては、自分の本質を生きることができない、といえるのだろうと思います。

これは、生ぬるく生きていてはだめですよ、ということでもあります。

善悪の話に戻せば、
自分の全き意識や意欲の発揚の先にある悪であれば、それは起こるべくして起こる悪であり、
実学に必要とされるような種類の「必要悪」であり、
それは陰がめぐって陽となり、陽がめぐって陰となるが如く、悪が転じて善となることもあるのだろうと考えます。

そしてそういうめぐる螺旋が大きくなればなるほどに、陰陽それぞれが深みを増していくように、
善悪、清濁というのも深みを増し、そしてその深みを増す先においては混沌とした同一化に行き着くのではないかと思いますがどうでしょうか。

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