最近の社会観察

まわりに軽々と羽が生えたかのように生き生きと自分の人生を生きている人がたくさんいるからなのかもしれないですが、

40代とか50代とかで、
他人のモノサシで生きている人と間近でお会いしたりすると、
何とも言えない「重たさ」というのを感じることがあります。

何か硬い感じで、
重たい四角の強張った柱のように感じたりします。

20代とか30代とかで、
自分を一生懸命飾っていて、人に注目を浴びたいがためにあれこれ装っている人というのにも時々お目にかかったりしますが、
そういう人は顔がつるっとのっぺら坊に見えたりします。

 

あるいは、
他人を通して何かを得ようとか、
イベントなどの集客のために人と繋がろうとする人というのは、
目がヨコシマな感じ、というか、
うまく言えませんが、同じ目をしているな、と思います。

 

これらの人に共通するのは、
どんよりと、淀んだ空気をまとっているということ。
じとーっとした湿っぽさというか、
それでいて、足がない感じもあります。

近くにいると、
気圧がヒューっと変わるみたいに湿っぽく重たい空気に満たされます。

 

前にそんな話をしていたら、
「それは生きた幽霊なのよ」
と言っていた人がいて、納得したことがあります。

 

何年か前、
不特定多数の人が集まる町のイベントやら、
不特定多数の人が集まるテーマ系のイベントやらに参加していた時期はあまり気にならなかったのですが、
ここ一年半くらい、
人間関係をかなり制限していていることもあり、そういうのをかなり敏感に感じます。

 

これは一体なんなのか?
ということを考えているのですが、

いわゆるマス教育の延長の没個性な生き方を修正することなく生きてくると、そういう人になるのかな?
という気もします。

 

が、世界の多様性や個性の多彩さを楽しみたいタイプの人にとっては、
多分そういう人と付き合うのは時間と労力とお金の無駄遣いです。

 

世の中には性質的に合う合わないはありますし、
思想的に合う合わないというのもありますが、
そういう「自分がない」人はそもそも「それ以前」の問題な気がします。

 

自分の軸を築くのはたいへんだし、
個性に振り切るのは勇気のいることでもありますが、
そういう人しか入れない世界というのもあるな、と思います。

 

ちなみに、
上にあげた没個性の人たちや、
ヨコシマな人たちを集めて誘導する、
ハーメルンの笛吹きみたいな人をたまに見かけますが、
そういう人は最悪な人間だな、と思ったりします。
が、世界はハーメルンの笛吹きを求めている面もあり、その笛吹きを量産している人たちもまたいます。

 

それぞれがそれぞれの個性を美しく生きることの大切さ、
そういう人たちの織りなす美しく多彩な社会に算命学が生かされるようになるといいな、と思います。

Photo by 五玄土 ORIENTO on Unsplash

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