学んでから実践するか、
実践を通して学ぶか?
現代日本では、
教科書で勉強してから応用する、
教わってからやってみる、
学校を出てから実業に就く、
などに見られるように、
学んでから実践する、というのが一般的ですが、
陰陽五行思想でいえば、
実践を通して学ぶのが自然の理とされています。
水を生むのは金なので、
実践が学びを生む、ということになります。
百聞は一見にしかず、
という言葉にあるように、
理論を学校でどれだけ学んだところで、
待った無しの環境における経験によって学べることの壮大さには遠く及びません。
例えば、
試験勉強などでも、
過去問をやった後で教科書を読むと、
頭に入ってくる情報量が格段に増えるものですし、
受験に際し、
そこに「医師になりたい」などの明確な目標がある場合も、
学びは机上のものでありながらそれ以上のものになるものですが、
これは、
「金の先取り」による学び(水)であることによります。
実際の試験を受けるという実践、
実際に医師になるという実践、
そういう実践を、
過去問や明確な目標という形で先取りすることができれば、学びはとてもスムーズに、そして速やかに進みます。
「先取り」とは、
既にそうなっているその「心」の先取りのこと。
何かが実現するときの学びを振り返れば、多くの場合、この「先取り」が出来ていることに気づくはず。
よく、学校の先生などが、
過去問をやりましょうとか、
目標を明確にしましょうとか言いますけれど、
そこに自分の「心」が乗っていかなければ、
過去問は単なる試験問題の寄せ集めですし、
目標は単なる文章にすぎません。
そうした「先取り」なしには、過去問も目標もあまり意味がありません。
注意が必要なのは、
「先取り」は、
「仮想の実践」ではないということ。
「実践」の本質は心技体を備えるところにあり、
具体的な実践によらずとも、
その「心」を備えることによりその実践としての効果が発生する、ということであって、
決してそれを「夢想する」とか「希望する」「乞い願う」というようなことをもってその心というわけではないことに留意が必要です。
なお、
現実の実践と心の実践。
順番を問わないその理由は、
東洋における円環的な時間感覚の中では、順序に意味がないからです。
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