算命学の源流は道教にあります。
道教は、
「道(タオ)」というものがあり、それはあらゆるものを含み、
その「道」はよきものになっていくという思想です。
天体は弛みなく定期的に巡り、
森羅万象は規則正しくその命を育む。
あらゆるものは、
その宇宙のルールに則って、
よくなっていく。
算命学の基本にはそうした考え方があります。
よって、
60干支は陰陽五行のルールに則って規則正しく並び、
その干支の組み合わせは必ず成長に向かうべく陰×陰、陽×陽の組み合わせしかありません。
このことを現実世界に落とし込めば、
こうしたルールに則っている限りあらゆることは成長の機会であり、
そのルールに従っている限りあらゆるものは発展していく、ということになります。
問題のあるところには何か本来の在り方とは異なるものがあり、
苦しみのあるところには何かあるべき道から逸れている部分があります。
このところニュースを賑わせているとある事故について調べていましたら、
壮年期から晩年期への移行を果たしていないということが分かりました。
本来、精神性に向かうべきところで、現実性に固執しておられたのかな?と思います。
大きなニュースになったのは、
今年己亥の年は大衆が強く伝統的な知性を剋す星回りであることも影響しているのかもしれませんが、
それにしても、
やはり結局のところ苦難や困難というのは、本来の宿命から逸れたところにあるものです。
宿命において、
例えば子供の頃に子供の星がまわり、
大人の時期に大人の星がまわり、
晩年において老人の星がまわれば、
私たちが一般的に認識している人間の成長の姿、社会で認識している成長の道のりどおりなので、
迷いも混乱もなくその人生を歩めるわけですが、
多くの場合、そうはなっていません。
しかし一方で、
自分の心の声に耳を傾け、
あるいは自分に訪ずれる機会に心を開き、
自分に降りかかる出来事を謙虚に受け止めて行っていれば、
ごく自然に無理なく自分の宿命どおりに星を光らせることはそれほど難しいことではなかったりもします。
私たちの時代の難しさは、
まだまだ個性を生きることに消極的な人がたくさんいるということです。
世の中の常識や他人の価値観、お金や地位などに固執すると、
あるいは個性を軽んじ現在の生活にしがみつき続けていると、
どんどん自分の本来の性質が見えなくなり、
宿命から逸れ、
そのことに自分でも気づかないまま、
その先には奈落に落ちる崖っぷちしかない険しい道を歩み続けることになります。
起こる出来事には意味があり、
それは向かうべき道の兆しです。
取り分け不運に思えることというのは避けたり否定したりしたくなるものですが、
そこから逃げることなく対峙して、
場合によっては角度を変えながら眺めて捉え直していくことによって、
気づくことや見つけるものというのがたくさんあるように思います。
その個性を愛せるようになるのではないかな、と思います。
あらゆるものはよくなっていく「道」を信じること。
それを大事にしようと思いました。
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