易経を学び始めた頃、東洋思想ってもっと立体的なんじゃないかな?と感じました。
2年くらい前のことです。
以来その謎をずっと追いながら、
易経から算命学、気功…と追いながら、
まだまだ初心者の域を出ないものの、空間に色が見え始め、人が球体に見えて、その球体の色と意味がふわふわと浮かんでいるように感じ始めました。
本を読んでも先生に教わっても、「言葉の壁」は超えられないものですが、
最低限の言葉をシンボルとして感じていく、
文字を書きながら、その各プロセスの時間のなかでカラダに浸透していくと、
球体の中のポジションごとに生命を感じるような理解が進んでいきます。
東洋思想の知識というのは、
文字になっていない空間やら世界やらを読むための「言語」なのだと思います。
英語とか日本語とかと同じように、
必要な単語を覚えていくように、東洋思想の「単語」を覚えていっている感じ。
算命学宗家の言葉に、
「人は地に生まれ、天界をいただく。
ゆえに今生において、天地人三界を脱すること難し。
ゆえに人は天地人三歳の理の中に生く。」
というものがありますが、その「天地人三歳の理」を学んでいるのだな、と感じます。
それは自分の生きる道を知ることであり、
人の生きる道を尊重することであり、
世に起こる出来事を謙虚に受け止めながら見つめるということでもあります。
前に
「人間は世にあって客人として過ごすべし」というような内容の本を読んだことがあります。
そのときは、そんなに遠慮ばかりしながら生きてられないし!などと思ったものですが、こうして東洋思想を学んでみると、その意味がよく分かります。
世の人、世にあるものは、それぞれにそれぞれの道を歩んでいて、それぞれに価値がある。
自分から見たらおかしなことでも、
その人にとっては自分の星を光らせる「在るべき道」を歩いているだけだったりする。
そのことに思いを馳せれば、「離れる」という選択肢はあったとしても、「怒る」とか「苛立つ」とかいうのは筋違い、ということなんだと思います。
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