昔、
人間はそれぞれタコツボ(個人の世界観)の中に入ってしまっているので、コミュニケーションをとるためにタコツボの外に出ましょう。
相手がタコツボに入っている前提でアプローチ方法を考えましょう、というような本を読んだことがあります。
最近、
タコツボは、出るより前に、「自分のタコツボ」をしっかり作り上げる方が先なんだろうという気がします。
「あのタコツボはかっこいいな」と思うなら、相手が出てくるのを待つとか出てくるようアプローチするのでなく、
自分から推参する、というのが正しい気がします。
推参、というからには、御託は自分のタコツボにおいて、相手のタコツボに入り込むのが良い気がします。
そして同じように推参する人たちがその「素敵なタコツボ」のまわりに集まって、趣向の似たようなタコツボが並ぶ。
タコツボの村が出来ます。
タコツボの村は、それぞれまったく別の階層に存在していたりもして、
それぞれのタコツボの村は、別の太陽、別の月を眺め、別の世界観で生きています。
それは悪いことではなく、
それぞれのタコツボの村が、それぞれの完成形を目指して生きている。
結果として、宇宙全体で見れば、美しいタコツボの村がいくつもあって、壮大な音楽、壮麗な絵画のように感じられるのではないか、と思います。
曼荼羅には、仏様から餓鬼までさまざまな存在が内包されているわけですが、
仏様が良くて餓鬼が悪いわけではなく、それぞれに存在価値がある。
同様に、タコツボもタコツボの村も、
それぞれが完成形を目指していれば、まったく別の、「オリンピックと亜鉛」くらいまったく別個のものであったとしても、良いのではないかな、と思ったりしました。
これは、ちょうど一年前にFacebookで書いたことですが、特に算命学を意識して書いたものではありません。
ただ、読み返して、「タコツボ」を、星とか性質、宿命と読み替えて、再度ご一読いただけると、宿命を生きることの美しさが伝わるかな、と思ったので転記しました。
個性を生きることの尊さ、ということをこの頃はタコツボとして捉えていたようです。
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