小説を好む人たちにはある種の軟弱さがある、といわれたりします。
極めて厳しい現実にぶつかったとき、空想の世界に逃避して、シャッターを閉じてしまう感じなど、確かにあります。
自分を空想上の主人公にしてしまって、
あるいは自分にとって都合の良い視点に陣取ってしまって、
周りを正確に把握しない、できない傾向というのも、あるかもしれません。
明治の時代においては、
「男児たるもの小説のような軟弱なものを読むべからず」
と、言われたりしましたが、その意味はそうしたところにあるのだと思います。
算命学的に、小説のようなノンフィクションを読むことが危険視される人たちがいます。
例えば、
宿命中殺がある場合や、
戊亥天中殺の人の場合です。
このことについて、教科書には「小説のようなノンフィクションを読むことは危険」とあったりするのですが、
先日、ふとしたことで、
小説を好んで読むことによって空想の世界へ飛んでしまって戻ってこられなくなる、ということなんだろうと気づきました。
宿命中殺の場合、人生において枠がないので空想に飛ぶと大きく飛べる分、飛びすぎてしまうことがありますし、
戊亥天中殺の場合、現実虚なので虚となった現実から空想に飛んで戻ってこられなくなる、ということです。
枠のない世界観は、
大きな飛躍をもたらす可能性がある一方で、空想に遊び現実から逃避するリスクを孕みます。
ゆえに、幼少期に教育が大事であるといわれます。
きちんと地に足のついた感覚を身につければ、広い世界に向かう視点を活かすことができます。
「枠にはめる教育」について賛否ありますが、戊亥天中殺の子供や宿命中殺のある子供に「一般的で平和な生活」を歩ませてあげようと思うと、こうして幼少期にきちんと「枠」を教え込むことが大事だと古代東洋の人が考えたとしても不思議はありません。
しかし時は現代。
現実の美しいところだけを切り取る能力とか、
人が思いもよらないことを想像する能力というのも、立派に現実の中に存在の意義があり、それを認める環境もあります。
「軟弱」だからこそ見える世界や、
「現実」にとらわれないからこそ向かえる世界というのがあり、
それと知って向かうのであれば、むしろその能力のある人にとっては、そういう世界に向かうことが望まれる生き方なのかもしれません。
大事なのは個性を個性として自信と自負を持って生きること。
小説を読みながら、そんなことを考えました。
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